LGBTとダイバーシティと社会のこと|増原ひろこ Official Blog

LGBTアクティビスト増原ひろこ Official Blog

まずは言葉のナイフを鞘におさめてほしい。対話はそれからだ。

杉田水脈議員のLGBT差別文章を擁護する特集が、同じ「新潮45」の10月号に掲載され、再び衝撃がはしってから約2週間。
 
この間ずっとこの「事件」について考えてきました。
 
関連するテレビや新聞の報道もチェックしたし、SNSでの反応も追っていました。ウェブ記事もたくさん書かれて、だいたい目を通してきました。
 
ずっとと言っても、四六時中考えていたわけではないのですが、頭の片隅にささっている棘みたいなもので、だからか、ここ2週間は個人的に低めで安定していたように思います。
 
さて、この擁護特集の内容については、いろんな視点でいろんな意見が言い尽くされてきたように思うので、個別にとりあげて誰の文章のどこがとくに酷い、、などの細かいことをここで書くつもりはありません。
 
これを読んでくださる多くの人は、すでに知っているだろうから。
 
この問題、私に見えている構造はこうです。
 
杉田議員はじめ、その言説を擁護する人たちというのは、いろんなカテゴリーやラベルで人を分断して、あたかも「差別して傷つけていい人」と、そうでない人とがいるかのように扱い、息を吸って吐くように、差別という言葉のナイフをふりかざしています。
 
彼らは、差別と区別は違うんだなどと詭弁を用いますが、
 
「それは区別じゃなくて、差別ですよね」
 
と言いかえしたくなる場合がほとんど。
 
憲法で保障されている、「個人として尊重される」とか「法の下の平等」とか、そういう概念を知らないのでしょうか。国会議員や文芸評論家であれば、知らないわけはないと思うのですが。
 
細かなところ、たとえば「〜〜というのは誤読だ」とか、「全体を読めばわかる」とか、「『生産性』という言葉だけが切りとられて過剰にバッシングされている」などと言う意見(言い訳?)を目にします。
 
でも、もっとそれ以前の、前提として差別的な思想が文章のはしばしからにじみ出ていることに、多くの人がーー直接的に攻撃されたLGBTだけでなく、もっとずっとたくさんの人がーー気がつき、傷つき、悲しみ、そして憤慨し、批判や抗議の声が集中したのだと思います。
 
だれかさんが言っているような陰謀論なんていうのは、そうとうにピントがずれた妄想であり、陰謀をくわだてている暇なんか、あたりまえですがありません。苦笑が漏れます。
 
そんな暇があったら、社会をより良くするために時間を使いたい。
大切な人と時間をすごしたい。猫と戯れたい。
 
ネットを見ていると、新潮45を廃刊に追いこんだ「リベラルファシスト」なんてきつい言葉が飛びかったりもしていますが、雑誌を廃刊させたくて声をあげていた人なんてほとんどいなかったと思います。もちろん私も違います。
 
ただ気づいてほしかった。知ってほしかった。
反省してほしかった。謝罪してほしかった。
怒っていた。悲しかった。
 
もう40になり、ひととおりいろんなことを経験し、セクシュアリティにまつわる苦悩も時間をかけて乗り越えてきた私のような人間でも、一連の暴言の数々には、じわじわと傷つきました。古傷がうずくような感覚です。
 
でも、今、困難の真っただ中にいるLGBTの人たちは、生傷です。
生傷を差別というナイフでえぐられて、血を流しています。
 
杉田氏や擁護特集の中でも一番酷かった小川氏、そして、それらのヘイト主張をネットなどで擁護する人たちは、自分たちの言葉が多くの人を傷つけていることに、気がついていないのでしょうか。
 
もし気がついていても、それはそれでいいと思っているのでしょうか。
 
新潮45は休刊(事実上の廃刊と言われていますね)になりましたが、具体的な検証がまったくないまま、文芸へのビジネス上の影響を一番気にしたのでしょう、ああいう形でいったん沈静化をはかりました。
 
新潮45の編集長や編集者などは、こういう傷つきや痛みには鈍感になってしまったのでしょうか。
 
と、このままいつまでも嘆きつづけられそうな勢いですが。。。
 
ようやく私もこの2週間ざわつきっぱなしだった気持ちを文字にすることができました。
 
こういう問題を解決に導いていくためには、対話が必要だと言われます。それはとてもよくわかります。
 
でも、私は今のままで、相手が鋭利なナイフをふりかざしたままなのだとしたら、対話ができる自信はありません。これ以上傷つくのは避けたい。逃げたい。安全な場所にいたい。
 
仮に対話を始めたとしても、「相手を尊重する」とか、「差別をしない」という土台を共有できないのなら、建設的な対話にはならないと思います。
 
言葉は、だれかを包みこむ毛布にもなれば、胸を深くえぐる凶器にもなる。
 
それは、だれでもその可能性があるということです。もちろん私も。
だから、その暴力性、危険性に自覚的でなくてはいけないと痛感します。
 
LGBTにかぎらず、女性とか、外国人とか、沖縄の人とか、障害者とか、いろんな「差別OK対象」をつくって暴力的な言葉をまきちらしている人たちには、
 
まずは言葉のナイフを鞘におさめてほしい、と切に願います。
 
その状態になって初めて、私も対話にのぞめると思います。